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Interview

第1エピソード


僕は1962年12月28日にオランジュで生まれたんです。親父はイタリア出身でアントワーヌ、通称「トニー」って言って、お袋はイギリス出身のアンヌって言います。親父はギターをやっていて、兄貴はフィリップとルイって2人いるんですけど、それぞれギターとベースをやってます。僕が覚えている限りで言うと、いっつも音楽に浸かっていましたね。3歳から僕はギタリストのウェス・モンゴメリーに魅せられたんです。親父は彼のレコードを聞きながらギターの練習をしたものです。で、僕はウェスの音、リズム、フレーズ、スウィング感に魅了されたんです。暖かくって強くって、ちょっと親父みたいだったな…うちは先祖代々音楽一家なんです。僕の父方のおじきもギターをやっていたんですよ。彼はナポリ出身です。僕の誕生は家族にとってある種ショックだったと思う。1962年、僕の病気、骨形成不全のことはあまり知られていなかったから。

親父はよく働いてました。ダンスホールでの仕事が多かったな。親父は内気な人ですね。とても実直でイタリア人気質。個人的なことについて多くを語るのをよしとしない感じで…「いくらした?」なんて尋ねたりしないタイプですね…僕が親父に電話をして、「今いいかな?」なんて聞くと、こう応えるんです。「おやおや?!今いいかって?僕の息子なんだから駄目なことなんてあるわけないさ。ミシェル、そんなこと言いなさんな…」ってね。お袋もよく働いていたな。洋裁の手直しやすそ縫いをしていたね。たいていは家でやっていたけれど、仕立て屋でやっていたこともあったな。兄貴二人は学校に行って、僕は家でお留守番。僕が6歳の時に家はオランジュからモンテリマールに引っ越したんだ。オランジュにいた頃のことは今でも覚えているよ。例えば親父が車庫でギターの練習をしていたり…親父は決してお金を持ってなかったけど、家は一通りのものは揃っていたな。親父はいつも自分と家族がよりよい生活をできるようにと努めていたんだ。だから僕らは小さな別荘やテレビを持っていたんだ。ーその当時はそれ程出回っていなかったんだけれどね-電話もそうだし、車も…近代的で快適なものとかだね。だから僕は決して不幸だ、とか苦労しているとかいう風に思ったことはなかったな。けど、両親が凄く苦労していることは分かっていたよ。どんなものもお金を支払わなければ手に入らないからね。家の家賃とかさ…家の親は相当きつい仕事をしていたと思うし、月末は苦しかったと思うよ。時々皆でパンとカフェオレをほおばったな。本当、喜んで食べた。パンにバターを塗ってカフェオレと一緒に食べた時は最高だったよ!でもやっぱり、家の親にとってはそれも少し厳しかったと思うんだ…

5歳か6歳の頃オランジュ古代劇場カウント・ベイシーも聴きに行きました。子供が夜の7時にお出かけするなんてかなり珍しいことだったんですけどね。うちはスパルタ教育だったから、もうその時間はベットに入る頃なんだ…。けどこの日は特別な夜だったな。このイベントのために正装したんだから。僕はミュージシャン達が楽器をケースから取り出すのを見たよ。それからカウント・ベイシーが僕のところにやってきて、彼が被っていた帽子を僕の頭にのせたんだ。-お馴染みのあの水兵帽をだよ…。-それから僕に英語で何か言ったんだ。もう思い出せないようなことだったけど…。劇場の中で僕みたいな小僧を見ることは彼を楽しませたんだね…。

僕の最初のピアノは親父が空軍基地からもってきたものなんです。そこで親父は倉庫係として働いていたんです。親父の同僚が持っていたアップライトピアノだったな。彼が僕らにピアノを譲ってくれたんだ…或いはもしかしたら親父がそれを買ったのかもしれないね。僕にはもう分からないけれど…この本物のピアノがやってくる前におもちゃのピアノにまつわる話があるんだ。両親が僕の為に買ってくれたのに僕が壊してしまったおもちゃのピアノ。なんで壊したかって言うと、このおもちゃのピアノは僕が聴いていたピアノみたいに本当には鳴らなかったからなんだ。この話は有名でよく取り上げられるんだけれど、別にこのことが僕を何か決定的な方向へと向かわせたわけではないんだ。別にこのことが僕の人生を変えたんじゃない。本物のピアノの音。それを僕はテレビ番組で聴いていたし、もっと言うと、「見ていた」んだ。ピアニストはデューク・エリントンだったな…僕にとってのもう一つのテレビの大きな出来事は、親父が兄貴達と僕を起こしてくれて見た人類初の月面歩行だな…けどあのグランドピアノ、あの楽器の美しさには及ばないな…あの音は僕の心に今でも鳴り響いているし、しっかりと目に焼き付けられているよ。だから僕はこの番組がなんていったか本当に知りたくないんだ。目を覚ましたくない夢みたいなものだからね。

基地からもらったこのピアノに僕が向かったとき、お袋はクラシックのレッスンを受けたほうがいいねって言ったんだ。それで僕はメトード・ローズから始めたんだ…でも二人の先生を「たたきのめしちゃった」な。何でかって言うと、僕はどんどん直ぐにメトードを進んでいったし、生意気だったからね。僕のおかげで彼らは精神的に参ったと思うよ。のちに、うちがモンテリマールへ引っ越したときに、僕は本当の意味でのピアノの先生に出会ったんだ。ジャックマン先生っていったな。彼女はパリ出身で、演奏者の仕事をしていたんだけど、心臓病の旦那さんのために止めたんだ。彼女に10年位習ったな。僕らはよくやりあったけど、でも彼女も負けてなかったな。
僕は既に音楽のビジョンを持っていたんだ。クラシックでも、僕なりに聴いていたからね。僕はいつも音楽に対して凄く真剣に向かっていたんだ。ーだからもし先生が本を読んでいたり、他の事を考えているように感じたら、僕は怒ったんだ!僕は僕なりにクラシック作品を解釈していたんだ。音やリズムを変えたりしてね。だから「この作品はそんな風じゃなわ」ってよく注意されたもんだったよ。けどその時僕はこう応えていたんだ。「こうだよ。僕にはこう聴こえるんだ。ほら。いい加減にしてくれよ。」ってね。
僕は電子式の小さなラジコンサーキット「サーキット24」を持っていたんだ。で、ある日、ジャックマン先生がこう言ったんだ。「サーキットで遊んでないで、ピアノの練習をした方がいいわよ…それに、その陳腐なサーキットのおかげでストッキングを伝線したわよ…。」って。それで僕はこう応えてやったんだ。「親父が貴方にお支払いしている月謝で、新しいストッキングを買えばいいじゃないですか…」ってね。8歳の頃だったな!僕はいつもこんな風だったんだ…。体の障害があったからかもしれないし、小さかったからかもしれない。歩くことも出来なかったからね。それがある種の自己防衛の形だったんだ…違う人と会うときは皆、防御体制に入るよね。

クラシックピアノのレッスンは週に一時間だったんだ。けど、親父と一緒に毎日やっていたな。ジャズとクラシックをね。それをお袋が監督するって感じでね…けどお袋は兄貴たちに対しては音楽に関してそんなに厳しくなかったんだ。寧ろ学校の勉強の方を心配していたな。僕には学校の勉強より音楽だったけどね。学校の勉強に関しては、僕には家庭教師がついていたんだ。週に2回か3回やって来ていたな。けどそれは全然うまくいかなかったんだ。酷いやつなんかが多かったし、競争相手もいなかったからね…家庭教師に来た人は暫くすると皆止めていたな。僕とうまくいかなかったからね。或いはうまくいった場合、そのまま続けた人もいた。けどそれは彼らを僕が完全に丸め込んだからなんだけどね。僕の宿題をやる奴までいたんだから。算数の先生で凄く感じのいい人もいたな。実際には経済学の先生だったんだけどね。彼女はジゼルっていって、僕は今でも彼女と付き合いがあるんだ。ある日、彼女が僕の宿題をやって、それを提出したんだけど、その宿題が添削されて戻ってきたときにこんな注意書きがあったんだ。「あなたは先生が学ばなかった幾つかの表現と言葉を使用していますね…」って。「僕の」宿題を添削した先生はジゼルのレベルにさえ達していなかったんだ。それでも彼女は経済学の専門だったんだけれどね… 第2エピソード。

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[翻訳]
Poisson
[訳注参考サイト]
伊藤庸一研究室 建築斜緑
宇宙研究開発機構
骨形成不全友の会
ベイシーの小部屋
Arscénique
SonyJazz.jp
WES MONTGOMERY WEMON倶楽部

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