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Interview

第2エピソード

この未発表インタビュー(長編インタビューのために「連載形式」となった)は1997年に行われたものである。ペトルチアーニはこのインタビューでそれまでの彼の経歴を詳細に語り、人生の秋に長い旅路を読み返すこととなった。その第2エピソードである。(まだ第1エピソードを読んでいない場合はこちらをどうぞ。)

「僕は何かになりたいとか全然思っていなかったんです。家にいて、ピアノを弾いていられればそれでよかった。親父とお袋は結構過保護だったから、僕はあまり外に出かけなかったです。

モンテリマールのピエール・ジュリアン通りに、両親が音楽専門店「スペシャル・ミュージック」を開いていました。僕はそこでカセットプレーヤーやラジオを修理してました。ギターのチューニングもしたし、お客さんの前でオルガンのデモンストレーションもしたな。「ミシェル!こちらの旦那さんのために何か演奏しておくれ!」なんて小さい頃に何度も聞かされた台詞ですね…うんざりしたくらい。だから家に誰かがやって来るとすぐに、来たって分かるんです。それで声がかかるるぞってそわそわして、髪をなでつけたものです。人前に出る準備は万端だぞって思いながら…勿論それは見せ物みたいで嫌だったよ…けどどこの家の親もそんなもんだよね…「家の息子はピアノを弾くんですよ…さあおまえ、こちらの旦那さんにピアノを弾いてごらんなさい」って。僕は親父が「ミシェル!」って叫んだあの声をずっと忘れられないと思うよ…

結局のところ思うに、僕は本当に凄く幸せな幼少期を過ごしたとは言えないと思う。病院、病院の繰り返しだったし、足を折ったと思ったら腕を折って、松葉杖をしてはギブスをはめて、夢をみてはそれも忘れてしまって、僕は家に閉じ込められていました。両親は僕を一人で外に出すのを本当に心配していたから…それで18歳の時に、僕は家から8000キロ離れたところに飛び出した。もうなんか駄目になるって思って…今は、パリに仮住まいを持っているけど、相変わらずアメリカに住んでます。両親には以前よりも会うようになったけどね。でも結構しんどいときもあるな。

70年代の初めに、初めてコンサートに出演しました。ダンスホールでした。タンゴにパソ・ドブレクリストフのものとかをやりました。「アリーヌ」「青い言葉」とか…僕は初めてもらったギャラのことを覚えてます。オレンジ一つ。親父がくれました。ギャラをもらって認められた感じがして凄い嬉しかったな!あの当時僕はドラムを叩いていた。僕はクラシックピアノのレッスンを受けてたから、ピアノでジャズやその他のジャンルを弾くことができなかったんです。「権利」がなかったって言えばいいかな。お袋にはクラシックしか弾いちゃ駄目よって何度も言われていたしね。それで親父が僕にドラムをやらせようって言い出した。凄いいいアイデアでしたね。それで僕の背丈にあった小さなドラムセットを組み立ててくれた。おまけにこれが僕の足の筋肉を強くさせたんです。だからこれは骨形成のセラピーであると同時に、兄貴達や親父とジャズをして僕が明るい気持ちになれるいい機会でもあったんです。

ピアニストの多くがドラムもやりますね。例えばキース・ジャレットなんか凄い上手でしょ。コリアもやる。逆に、ジャック・ディジョネットはピアノも上手なんだ!僕は、ギターをちょっと、ベース、あとはソプラノサックスもちょっとやるよ…そんな驚くことでもないんだ。家は両親が音楽専門店をやっていたから、僕はほとんど全ての楽器を少しは触ったことがある…けど、特にドラムとギターは結構やりました。で、勿論ピアノ、僕はこれを本当に奥まで知り始めています。2、3年前になってようやくね…冗談じゃなくって本当に。

僕はいつも親父と演奏しました。でも僕が本当に演奏していた、つまり、本当のコンサートに出演していたと思える時、親父はそこにはいませんでした。他のミュージシャンと演奏していた…親父がいると、僕は気が抜けて、安心してしまうんです。まるでちょっと家にいるかの様になっちゃう。他のミュージシャンとだと、愛情とか家族とかなくって、もし僕が何かやらかしたら、責任をとらなければならないでしょ…

70年代の中頃にかなり一緒に仕事をした人がいます。トランペッターのアラン・ブリュネです。のちに、彼はジャック・ラング内閣の長官になりました。どっぷりと政界に入っていたんだ!彼はヴァランスに住んでいて、僕らはよくプチクラブで一緒にはじけたもんだよ。彼は僕が一緒にトランペットを演奏した仲間だったし、今でもそう…凄く感じがよくって、魅力的で、気取らない奴なんだ。ブリュネは、少し僕の親分みたいなところがあったな。僕のリーダー。ベースは兄貴がやって、ドラムはジャック・ボンナルデル。アランのおかげで、僕はトランペッターのクラーク・テリーと一緒に演奏できたんです。ドローム県のクリウスクラで開かれたジャズフェスティバルでの話。必ず誰か「国際的なスペシャルゲスト」が招かれていて、その年はクラーク・テリーだったんです。僕がピアノで、兄貴、ボンナルデル、それとアランのビックバンド。あれが僕の人生で初めての本当の大きなコンサートだった。僕は13歳だった。

その頃地元では僕は既にある程度知られていました。僕の家族も。音楽一家って感じですね。モンテリマールの近くにミュージシャンの一行がやって来ると、僕らの店に立ち寄って、機材やドラムのスティックとかその他色々なものを買っていきました…家はミュージシャン達の間である程度評判がありました。「弦やスティックを買いたいなら、ペトルチアーニの所にいくといいよ。そういった一家なんだ。音楽好きっていう…」って言われてたぐらい。

その当時は勿論、ミュージシャン達が立ち寄ると、あのお決まりの「ミシェル!こちらの旦那さんの為に何か演奏しておくれ…」って台詞を聞かされてました。アメリカのミュージシャン達が家のお店に立ち寄った時、やっぱりかなり驚いてましたね。信じられないって。つまり、モンテリマールの、小麦畑に囲まれたしょぼい家に住んでいる僕らが、ハーモニーを駆使して「テイク・ザ・A・トレイン」、「イン・ア・センチメンタル・ムード」を演奏していることとか、全てね…僕らフランス人が、英語も喋れないような奴らが演奏してるって。彼らは本当に参っていたね!彼らにとって、僕らはドローム県モンテリマールに住む田舎ものだった…どこに舞い降りたんだろうって思ったと思う…

僕はこの頃演奏したカセットテープを幾つか持ってます。結構聴ける。今の僕の耳で聞いても悪くない。いい線いってる…僕は13か14歳で、今よりもさらに小さくって、肘掛け椅子に座って、こんな風に大きな目をしてて、兄貴は16か17歳だった…僕らがどんな風に見えたか想像できるな。モンテリマールにやって来て、僕らの演奏を聴いたアメリカ人は、きっと魔法使いの村に舞い降りてしまったと思ったと思うよ。僕らがミシシッピへ行ったらそこに住む連中がオーヴェルニュブーレーを演奏していたようなものだよね。

クラーク・テリーに話を戻すと、凄く感じがいい奴だった。けど、僕は彼と本当に喋ることはできなかった。僕の英語力のせいでね…今の僕は、昔の僕が英語を喋れなかったことが想像できなけど…その後、1977年、僕はケニー・クラークに出会いました。彼はモンテリマール劇場で、ダニエル・ユメールとシャルル・ソードレーと「ドラム・ミーティング」のようなツアーをしに来ていた。僕はダニエル・ユメールがケニーのドラムを組み立てたり、片付けたりしていたのを覚えているよ…ダニエルはケニーを敬ってるって感じだった。ケニーはもう体が弱っていたしね…僕らは親父と兄貴と第一部で演奏した…クラークは二人の子供がジャズを演奏するのを見て、近づいて来てこう言ったんだ。「ヘイ、マン、ビューティフル…」ってね。本当にアメリカ人って感じ…僕らは嬉しかったし、誇りに思いましたね。で、一緒に写真を撮ったんだ。でもこれは本当の意味では出会いではなかった。これに対して、ダニエル・ユメールはパリに僕を呼ぼうとしたんだ。で、親父にこう言った。「ミシェルをパリに連れていって、ロン・カーターと一緒にアルバムを作成したいと思っているんですが…」って。親父は僕にはまだ早いって言った。僕ならすぐ行ったと思うけど、今考えてみると親父の言うとおりだよね。もしそうしていたら、体を壊していたかもね。ブロー・フェレみたいになっていたかもしれない。親父はそうした面では凄く慎重でした。先を読む力もあったと思う。僕の人生やキャリアに関してね。」第3エピソード。


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[翻訳]
Poisson
[訳注参考サイト]
ヌマグチダンススクール
O'french music club
Universal Music
Oops! Music Community
Listen Find Your Music
フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』
オーヴェルニュの池のほとりで

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