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Interview

第3エピソード

この未発表インタビュー(長編インタビューのために「連載形式」となった)は1997年に行われたものである。ペトルチアーニはこのインタビューでそれまでの彼の経歴を詳細に語り、人生の秋に長い旅路を読み返すこととなった。その第3エピソードである。(まだ第1エピソードを読んでいない場合はこちらをどうぞ。)

「親父と兄貴とパリのエスパス・カルダンでギグもしました。僕らと一緒に演奏したドラマーは昔エディット・ピアフと演奏していた人でした。だから彼はビジネス面で凄く顔がきききましたね。僕らにこのコンサートの話を持ち出したのも彼。これは僕らにしてみれば大きな旅行となりましたね。お袋までついて来たんだから…家では外に出かける時、お祭りみたいな騒ぎになってました。めったにないことだったから。リヨンやマルセイユに行く事だってもう特別なこと。ましていつも家に閉じ込められていた僕にとっては尚更ね。いつも刑務所にいるみたいだったから…

ドラマーのアルド・ロマーノには、ベーシストのバール・フィリップスの家のパーティーで会いました。サン・フィメンヌのお家。ニースからそう遠くない所…僕らは椰子のみのふもとで飲んだ。アルド・ロマーノはそれまで僕が演奏しているのを聞いたことがなかったし、勿論僕の噂も聞いたことがなかった。僕はその頃トローンボーンプレーヤーのマイク・ズウェリンとアルバムを作ろうとしていた。彼は昔マイルス・デイヴィスとも演奏したことがあって、アプトに住んでいて、僕らの噂を聞いたそうなんです…で、僕らに会いにやって来て、演奏を聴いてひっくり返っちゃった…それで「ヘラルド・トリビューン」に僕らの記事まで掲載した…サックス兼クラリネット奏者のアンドレ・ジョームもこのパーティーにいました。僕はジョーム、マイク・ズウェリン、ルイ・ペトルチアーニ、それとドラマーのベルナール・リュバと一緒にアルバムを作ることに決めていた。けど直前に、ベルナールが断ってきた。他にやることがあるって…それでこのパーティーでアルドに会った時に、彼に言った。「アルバムを作ろうと思っていて、僕はピアノを弾きます。アルバムレコーディングの為にアプトに来てくれませんか?」って。彼は引き受けてくれた…このアルバムは1980年の8月にようやくレコーディングを終えた。タイトルは「Flash」

レコーディングのことは今でも覚えてますね。いい感じだった。これは僕の最初のアルバムだったけど、レコーディング自体には慣れてました。家で親父と毎日やってたから。本当、四六時中ね。今でもコンサートは全部録音して聴き直してる。自己チェックだね。「Flash」に入っている曲のタイトルを読み返すと、南仏にまだいるかのように思うね…僕はあの頃まだそんなに英語を喋れなかった。「イングリッシュ・ブルース」、「ヴォークリューズ・ブルース」とか、「ブルース」は「ブルース」って分かっていたけど、他の単語の意味は分からなかったな…コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」、これはあの頃よく演奏されていた曲ですね…

1980年の7月、「Flash」をレコーディングするちょうど前に、グランド・モット・フェスティバルに参加しました。僕はジョーム、ズウェリン、ベルナール・リュバ、それに兄貴のルイと演奏した。そこでピアニストのビル・エバンスに紹介してもらったんだ。僕のアイドルの一人…彼と大したことはしゃべらなかった。やっぱり僕の英語力のせいでね…

この頃はパリで本当に暮らしてはいなかったけど、自宅とパリの間を何度も行き来したな…音楽の為じゃないけどね。女の子の為。僕がその頃大好きだった人。彼女に会いに何回か行ったけど、彼女は僕程真剣ではなかった。僕より8歳年上でしたね。僕の初恋。彼女には今でも会う…一人の友達としてね。その当時は、音楽は口実だった。兄貴達に僕をパリに連れて行ってもらう為の…僕は結構粘るタイプだと思う!何かをしたいと思ったら、僕はそれをやってみせる!もし明日もうピアノを弾くことが出来なくなっても、僕はやっぱりなんとかして切り抜けると思う。信念も欲望もちゃんと持ってる。違う畑で格闘すると思うよ。学校とか何か団体に入って、他のアーティストを育てるのに専念したりね。これはもうそういう性格なんだよね。僕が成し得たことを成し遂げた力っていうのはもう真の業なんだ。ハンディキャップを背負いながら世界中を歩き回って、寝ないで、自分に出来る全てをする…勿論いつもうまくいくとは限らないよ。っていうか、どんどん大変になっていくね…

結構小さい頃から、外の世界を見に行きたいって思ってた。旅行をして、何かを発見して、色んな経験をしたいって…で、実際全て試した。健康と生活に危険を脅かすものは除いてね。例えばハード・ドラッグとかはやってない。けど、セックスの経験はあります…バンジージャンプもする機会があるんだったら、やりたい…パラシュートもいいな。気球も操縦したかったけど、着陸する時にかなり揺れるって言われて…僕は何でも実際やってみるのが好きな人。多少びびるようなこともね。親父と正反対だね。けど僕の唯一の才能っていうと、音楽とピアノを本当に愛しているということだと思う。深く。本当に深くね。才能ある人とない人の違いって、才能ある人は何かをするのに10分かかったかなって思いながら、10時間やれちゃうってことだと思う。本当に愛しているから。才能がない人は何かに10分を費やしたら、10分かかったなって思う…僕にとってピアノは決して仕事ではなかった。僕の人生なんだ。ピアノの前で10時間か12時間過ごしても、そうしたことさえ気が付かなかった…

「Flash」の後に、アルド・ロマーノがもう一枚アルバムを作ったほうがいいんじゃないって言いました。もうちょっと真剣にってことです。で、彼は僕に会わせたい人がいるって言った。これがプロデューサーのジャン・ジャック・ピュシオー。Owlレコードレーベルの経営者。ジャン・ジャックの事務所に行った時のことは、昨日のことのように覚えてるよ…
アルドが言った。「やあ、ミシェル、ジャン・ジャックを君に紹介するよ…」それから、ジャン・ジャックに声をかけた。「ミシェルを知ってる?僕らはアルバムを一枚作ろうと思っているんだ。」ジャン・ジャックはこう応えた。「知ってるよ、勿論。で、いつ出すの?」って。
彼はアルドのことを信頼してたね。だから僕に全て任してくれた。それで、僕らはオランダのゴロニンクエにアルバムレコーディングをしに出発した。当時の僕のガールフレンドを連れてね。本当に大好きだったガールフレンド。彼女と一緒に出かけたのは本当に楽しかった。僕がたった一人で彼女を3日間占領したのはこれが初めてだった…

そうした訳で、「Michel Petrucciani」、これが僕の最初の本当の意味でのアルバムになる。ドラムスにアルド、ベースはジャン・フランソワ・ジェニー・クラーク。ジャン・フランソワとはうまくいきませんでしたね。お互いに通じ合う、ピンとくるものがなかったっていうか、喧嘩までした位うまくいかなかった。僕は彼にエディ・ゴメスよりおちるねって言った…うん、ばかで傲慢だったね、僕。ジェニー・クラークはね、ゲイリー・ピーコックに似てるな。僕は彼ともうまくいきませんでしたね、後にね…彼らは「僕のピアノを包む」感じじゃないベーススタイルなんだよね。音色自体も問題だと思う。っていうか僕好みじゃないんだ。僕はポール・チェンバースみたいなスタイルに引かれる。両腕で僕のピアノを抱きしめてくれる様な、そんなスタイルがいいんだ…「ジェー・エフ」{ジャン・フランソワの略}はレコーディングに対してあまりモチベーションもなかった。少なくとも僕はそう思った。彼はチェスして遊んでるみたいだった…アルドは反対にいつもモチベーションが高かった。けど、彼は何に対してもいつも真剣だったな。っていうか全力で向かっていた。このアルバムの後に、僕はパリで定期的に演奏し始めた。アルドとね。

1981年にカリフォルニアに旅立ちました。不渡小切手で飛行機に乗った。そこに友達がいたんです。トロックス・ドロハートって言って、アルデッシュに住んでいた。モンテリマールの近くですね。以前僕がケニー・クラークとコンサートをした時に彼はそれを聴いてた。その時の僕らのドラマーがあまりにもひどい演奏だったから、彼がドラマーを自分と代えないかって申し出た。僕らに一通の手紙をよこしたんです。大雑把にいうとね、「拝啓ペトルチアーニ様、私はトロックス・ドロハートと申します。はずれの田舎に住んでおります。誰某と誰某と演奏したことがあります。…(ここの誰某っていうのは実際にはタル・ファーロウリー・コニッツって書いてあったな…)」って。
彼の演奏は悪くなかった。それで僕は彼と友達になった。僕らはよくパーティーをしました。彼は本物のヒッピーだったね。それから彼はアメリカに帰って…その頃から定期的に葉書をくれた。で、こんな風に言ってきた。「君はこっちに来るべきだよ。いい奴が結構いるよ…」って。それで僕はアメリカに行った!親父は反対したけど、それでも僕は行ったんだ…

カリフォルニアでの生活を本当に始める前に、「Date With Time」をレコーディングしました。81年の12月にOwlでリリースしたソロピアノアルバム。僕はこのアルバムが全然好きじゃない。何故って、酔っていたからね。レコーディングしたとき僕は酔いつぶれていたんだ。だからジャン・ジャックにこのアルバムを決して発売しないようにってお願いした。で、彼はそれを承諾した…けどその後、僕がブルーノート専属になったとき、ジャン・ジャックが財政的に問題を幾つか抱えてしまって、古巣への恩返しとしてアルバムの発売許可を出してほしいって頼まれた。僕は承諾したよ。勿論感謝を込めて…そういうわけで、このアルバムはレコーディングの10年後になってようやく発売された。本当にひどい演奏。僕は酔っ払っていて、あっちの世界にいっちゃってたんだから!

ドラッグは音楽にとっていいものじゃない。もしパーティーをしたり、レストランで食事をするなら、僕は美味しいボルドーを一杯とコニャックを少々飲みたいな。その位でいい気分になれる…けどもし僕が演奏する場合、又は仕事をして、作曲しなければならない場合、それも問題外だな。僕はコンサート前に、ワイン一杯飲むことさえ出来ないんだ。けどコンサート前に麻薬をやっていたり、お酒を飲んでる連中に僕が囲まれているのは本当の話。僕も試したことはあるんだけどね。ひとつの冒険として。「ピストル?何それ?ーほら。これいけるよ。トリップできるよ。-おお、凄いね…。じゃ、これは何?-コークの一種だよ。-はい。これもいけるよ…」ほんのちょっとトリップして、暫くすると元に戻った。僕は断らなかったんだ。けどおかげで演奏はうまくいかなかった…それで今はドラッグもアルコールも、何の役にも立たないと僕は思っている。何にもね。このアルバムを聴くと、作り直したいって思うんだ。レコーディングの翌日のこともろくに覚えていないんだからね。」第4エピソード。


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[翻訳]
Poisson
[訳注参考サイト]
Listen Find Your Music
Jazzhole
フランス政府観光局
CDJournal
京都外語大学付属図書館
Universal Music
Oops! Music Co
Owl Record
ヨーロッパ趣味の旅
To Bop Or Not To Bop ジャズギター

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