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Interview

第6エピソード

この未発表インタビュー(長編インタビューのために「連載形式」となった)は1997年に行われたものである。ペトルチアーニはこのインタビューでそれまでの彼の経歴を詳細に語り、人生の秋に長い旅路を読み返すこととなった。その第6エピソードである。ニューヨークでの生活、Owlレーベルでの最後の仕事、ブルー・ノートからのデビュー、ギル・エバンスと出会ったくだりである。(まだ第1エピソードを読んでいない場合はこちらをどうぞ。)

アメリカでリリースされた僕のファーストアルバムは「100 Hearts」です。これはジョージ・ウェインがプロデュースしたもの。彼はその頃アメリカで僕の仕事全般をマネージしていた。当時彼は既にレーベルを立ち上げていて、そのレーベルで初めてレコーディングしたのが僕だった。あともう一人いて、それはピアニストのミシェル・カミロ。ジョージは彼の熱狂的なファンだったからね。ウェインも僕のソロアルバムを望んだ…レコードジャケット(CDじゃなくって)の裏に、チャイナタウンで取られた僕の写真がある。チャイナ服を着てるやつ…この写真は結構気に入っている…ピエール・ロムが撮った写真もある。僕、ちょっとマイルスに似てるかなって自分で思ってるんだ。黒のサングラスをかけてるし…ピエール・ロムは友達で、映画カメラマン。有名なところだと「シラノ・ド・ベルジュラック」を撮ったのは彼…

ジャン・ジャック・ピュシオーは僕がアメリカでレコーディングしたことを知ったとき、あまりいい顔をしなかった…もっとも、フランス「チーム」は皆(ジャン・ジャック、アルド・ロマーノ…)いい顔をしなかったけど…僕は定期的にフランスに戻ったけど、アメリカにトリップして「いっちゃって」た。後でそこから戻ったけど…あの当時、僕はアメリカのものは何でもよく思ってて、フランス人はうんざりだった。…フランスを忘れてはいなかったよ。けど、アメリカ的な考え方の方がしっくりときていた。今はね、僕はフランス人だと思うし、フランスは僕の祖国だよ。けどアメリカは第二の祖国。今はニューヨークに住んでいて、僕の彼女はパリにアパルトマンを持ってる。だから頻繁に行き来してる。けどニューヨーク、ここに僕の住まいがある。パリじゃないんだ。

1985年に、チャールズ・ロイドのカルテットから完全に抜けました。それから僕はニューヨークに移った。エルリンダとも別れたばかりだった。彼女は僕の最初の奥さん。けど僕が新しい街に移ったのは別の女性の為…僕は彼女の家に転がり込んで、同棲した。それから、僕らはブルックリンに移り住んだ。

ニューヨークでは本当の意味でジャズを体感した。ジャズ世界に浸かったね。クラブにキャバレー三昧で…朝の4時や5時まで語ったり、演奏したり、ジャムしたりしていたな…当に大都会だった。カルフォルニアの田舎のことをもはや思い出さなかった…沢山の人に出会った。ソニー・ロリンズにもね!彼と話したよ。ギル・エバンスとの出会いは特に重要なものとなったな。ある日、僕はベーシストのロン・マクルーアとヴァカンスにでた。「ギグ・ヴァカンス」ツアーをする為にね。カリブ諸島のサンバルテルミにもろもろの諸経費込みで一週間。僕らは毎晩デュオをした。僕は電子ピアノでね。はじけたよ!である晩、誰がこのプチクラブに奥さんを連れてやってきたと思う?ギル・エヴァンスだよ!ギル・エヴァンスもヴァカンスで来ていたんだ…僕らはその晩、多くのことを語り合った。で、親しくなった。彼はしばしば僕に電話を掛けてきた。特にこれといった用事はなかったけど…僕は毎週月曜の晩にスウィート・ベイジルに彼と彼のビックバンドを見に行った。ある日、彼から一冊の本が届いた。「ミシェル」という題名の本で宗教的なものだった。その後、彼から電話がかかってきた。「やあミシェル、ちょっと君と話がしたくって。僕はこれからある所に行くんだ…だから僕は君のことが大好きだって、そのことを言いたくって…これからも君の音楽を続けていってね」その日の午後に彼は亡くなった…何かこみあげてくるよ…ね、ただこのことを話してるだけで…けど、僕らは一緒に演奏したことはなかった。僕は誰か人の心を動かしたことがある、と自分で思ってる…時々、僕は自分が皆の興味を引くような凄い奴なんじゃないかって内心思うんだ。あいつやるよなって、僕を見て自分も頑張ろうって勇気がわく、そんな勇気の教訓を僕の中にみつけるかのように…

1984年10月に、OWLで又ソロアルバムをレコーディングした。タイトルは「Note'N Notes」。「オーバーダブ」でピアノの多重録音もしてる。けどもう覚えてないんだ…レコードジャケットの裏に、ジャン・ジャック・ピュシオーと僕の写真がある。なんでジャン・ジャックがこの写真をアルバムに載せたのか分からないけど…3ヵ月後の1985年の1月、ロン・マクルーアとデュオで「Cold Blues」をレコーディングした。これは僕が大好きなアルバム。ピアニストのフレッド・ハーシュのニューヨークのスタジオでレコーディングした。あの当時、僕はほとんど毎日ロンに会っていたな。僕らは四六時中一緒に演奏していた。僕らはクラブで出会った。当時彼はクウェスト・グループと演奏していた。で、僕らはレコーディングすることにした。デュオでね。絶対にいけると思ったからジャン・ジャックにその話をもちかけた。ジャン・ジャックはすぐに乗って、アルバムが世に出た…「Cold Blues」ってタイトルをつけたのはごくごく単純にニューヨークが肌をさすような寒さだったからなんだ…雪が一面に広がってた!「Cold Blues」は僕の最後のジャン・ジャックとのアルバムとなった。彼と一緒にやることは凄い楽しかった。けど僕はもっと大きなことをしたかった。「世界を股にかける」ようなこと。けどジャン・ジャックが僕のデビュー。このことは決して忘れない。初恋みたいにね…

僕とロン・マクルーアの間には本当の友情があった。僕はニューヨークにいるミュージシャンで友人と呼べる人が4、5人いる。ロン・マクルーア、ギタリストのジョン・アバークロンビー、サックスプレーヤーのジョー・ロヴァーノ、ドラマーのジャック・ディジョネット、ベーシストのデイヴ・ホランド。彼らは僕にとって家族のような存在なんだ。例えば最近、僕は彼らの助けを借りた。アパートを引っ越すのに推薦状が必要だったんだ。僕は善良な市民です…とかっていうやつ。ジャックは僕の為に推薦状を書いてくれた。デイヴも…

ブルーノートレーベルと契約する前に、「Darn That Dream」をレコーディングした。これは「ファミリー」のアルバムで、親父と兄貴とトリオを組んでやった。問題があって、親父が僕と演奏したらすぐに周りに人だかりができちゃったんだ。僕がこのファミリープロジェクトに夢中になって演奏している時にね。結構ふざけたこととかしてたけど、深刻な問題になるような酷い連中ではなかった。けどこのプロジェクトはほとんどただ同然のギャラで済まして僕と僕の家族を利用したんだ…もう一つ問題があって、それは僕がちゃんとしたスタッフに家族とアルバムを作りたいってお願いしても、彼らがOKしないってことなんだ。僕が他のミュージシャンと演奏することを望む…これは今でも相変わらず厄介な問題。僕はこのアルバムの印税を一銭も受け取ってない。僕の家族もね。完全な詐欺!けど、影でほくそえんでる人が沢山いるってことは分かてる。何故って、僕はこのアルバムをあっちこっちで見かけるから。至る所でこのアルバムにサインをお願いされる。日本でもドイツでも…言ってみれば「Estate」と同じ。こっちのアルバムは1982年にローマでアルド・ロマーノとフーリオ・ディ・カストリとトリオでレコーディングしたんだけど…(続く)


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[翻訳]
Poisson
[訳注参考サイト]
CDJournal
Allcinema
フレッド・ハーシュ
ジョン・アバークロンビー
ジョー・ロヴァーノ
デイヴ・ホランド
フーリオ・ディ・カストリ

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