Home / Interview

Interview

第9エピソード

この未発表インタビュー(長編インタビューのために「連載形式」となった)は1997年に行われたものである。ペトルチアーニはこのインタビューでそれまでの彼の経歴を詳細に語り、人生の秋に長い旅路を読み返すこととなった。
これはその第9エピソードであり、「Playground」「Promenade With Duke」をリリースし、自殺未遂、ドリュフェス・ジャズ・レーベルに移籍したくだりである…
(まだ第1エピソードを読んでいない場合はこちらをどうぞ。)


「この2年後に次のアルバムアダム・ホルツマンと仕事をしていました。彼はマイルス・デイヴィス・グループを抜けたばかりでした。僕はマイルス・バンドのサウンドには結構影響を受けたと思う。「Tutu」の頃とかは特に。だから僕はああいったテイストの音楽を作りたかった。アダムはマイルス・バンドのためにプログラミングしたシンセの音を僕に持って来てくれた。これはマイルス・デイヴィス主義的なサウンド一色だった。「Playground」はブルー・ノートで出したアルバムとしては最後から一つ前の作品。この後に出す予定のアルバムがあったしね。僕はブルー・ノートでソロピアノアルバム、「Promenade With Duke」を出す予定だった。このアルバムは僕が初めて自ら望んだソロピアノアルバム。これも女性に関わっているんだ。あの頃の僕は苦しみの真っ只中にいてね。僕の息子の母親でもある女性が僕の元を去っていったんだ。僕はニューヨークにいて、一人ぼっちでこのアルバムをレコーディングした。アダム・ホルツマンが一緒にいてくれて、かなりの量のウォッカを飲んだな・・・もうどうにも立ち上がれなくって・・・大きな家に一人でいて、誰か他にいる人といったら、メードのハイチ人女性だけ。湾岸戦争真っ只中の頃で、皆、昼下がりにテレビを見て、僕はアダムと仕事をした…イタリア人のジルダ・ブッタという女性で、彼女はエンニオ・モリコーネのピアニストだった。僕らは10年前からの知り合いだった。辛くって、苦しい時に、僕らは一緒になった…僕は彼女のことが好きになって、すぐに結婚した!彼女は僕に何度も新鮮な感動を与えてくれたし、色んなことを教えてくれました。僕らはよく一緒に演奏した。ラフマニノフとかね。彼女は左手の使い方について細かく教えてくれた。彼女と一緒にいることで、僕は技術的にも音楽的にも成長したと思う。彼女にソロでアルバムを作ろうかと考えていると言ったら、彼女は僕をサポートしてくれた。デューク・エリントンに捧げたのは、僕が最初にピアノを弾きたいと思ったのがデュークにあこがれたのが始まりだったから。ジルダとの結婚生活は3ヶ月でピリオドを打った・・・短いよね・・・僕自身は2度結婚したことがある。一度目は18歳の頃でエルリンダと、あともう一回がこの結婚。
「Promenade With Duke」の後に、さらにもう一枚ブルー・ノートでアルバムを作りました。これは予定外のアルバム。このアルバムをプロデュースしたのは僕なんだ。タイトルは「Michel Petrucciani - Live」。この当時ツアーをしていたんだけど、ツアー・グループがうまくまとまっているなと思って、ライブの様子を形に残したいって思ったんだ。これはブルー・ノートへの別れのプレゼントにした。僕は彼らにこれを本当に「プレゼント」したんだ。うん、挙げちゃったんだよ!僕はちょっとアホだよね、うん・・・このアルバムの中に、「マイルス・デイヴィス・リックス」っていう曲があって、これは僕がマイルスのフレーズを幾つか引用して作った曲…面白いんだけど、この曲をコペンハーゲンやモンマルトル・クラブでジョン・スコフィールドと演奏したんだけど、ジョンは楽譜を見ながらこんな風に言ったんだ。「参った。マイルスはやっぱり彼しか作れない独特の曲を作るね…」って。彼はこの曲をマイルスが作ったと思ったんだ。

ブルーノートにいた最後の頃は、僕はうんざりし始めてた。彼らは他のヨーロッパのミュージシャン勢と契約して、僕はもはやブルー・ノート唯一のヨーロッパ人ではなくなっていた・・・僕はもっと小さな瓶の中の大きな魚でいたかったんだ・・・けどあそこでは、僕は大きな水槽の中の小さな魚に過ぎなかった。

フランス国内に関しては、フランシス・ドリュフェス社と既に契約をしてました。けど僕はあの頃、フランシス・ドリュフェスを知らなかった。プロデューサのイブ・シャンベルランは知り合いだったけどね。イブとフランシスがドリュフェス・レーベルを立ち上げた時、イブがフランシスに僕を獲得できたらいいのになぁって言ったんだって。彼は僕がブルー・ノートともめていることを知っていた。イブは僕に電話をくれて、僕のコンサートのどこかにフランシスを連れて行って、その時に二人を紹介したいと思うって言った。お互いに息が合うかどうかを確認したいからって・・・たしか、ドーヴィルでのコンサートだったと思う。コンサートの後に、僕らはバーに行った。ぺリエを注文して、話し合った。けどお勘定のときに、ウェイトレスが来なくってね・・・フランシスはいらいらしてきて、「ミシェルをこんなに待たせてしまうなんて…」って言った。結局、彼は500フラン札を一枚テーブルの上において外に出て、「もう!やんなるね!とりあえず支払ったけど…」って言った。僕は気前がいい人だなと思った。彼は僕をあんまり長く待たせたくなくってお金を払ったんだ。僕の心を動かすために意図的にやったとは思わないよ・・・フランシスは気前のいい人。だから僕は心の中で思った。「いい奴だな。彼と契約するぞ」って。

この当時、僕は経済的にかなり困ってました。酷いものだった。本当に貧しくって、精神的にも参ってしまって、暗い穴の中にふざぎこんでいた。フランシスは僕に「まあ、見ててよ。成功させるからさ。君を助けるよ。三年後には君にお金を渡せるようにするから…」って言った。僕は内心、「こいつ馬鹿だな。僕がこの貧乏生活から抜け出せるわけないのに。けど彼がそう言うなら、最後にかけてみようかな…」って思った。僕が自殺未遂をしたのはこの頃のことなんだ。本当に死のうとしたんだ…バーの階段に飛び込んだんだ。前方に松葉杖を放り投げて、僕は気絶した。けど、骨が生まれつき弱いこの僕が、肋骨さえ折らずに生き残った…目を覚ました時、僕は何でもなかった。その時、神様は僕が死ぬことを望んでいないんだなと思った…まだそうするには早い…これは僕の死期じゃないんだって。僕はもう一度自分の生命を手に入れて、そして仕事がうまくいくように動き始めた。

フランシス・ドリュフェスとイブ・シャンベルランと共に、僕は仕事というものを学びました。本当の意味での仕事をね。印税のことだとか、ビジネスのこと。どうやって税金を払うべきか、どうやってお金を管理するのかとか。フランシスと彼の弁護士達はブルー・ノートに話しに行って、23歳の若者に終身契約をさせる道理はないとか、契約をした時、僕がまともに判断できる状況にいなかったとか、どういうことかをしたのか僕が理解していなかったということとかを訴えてくれた…ブルー・ノートの報告書に会計検査があって、すぐに僕は45万ドルの小切手を手に入れた!こんな言葉付きでね。「申し訳ございません。忘れておりまして…」って。45万ドルはそれ程大きな金額ではなかったかもしれない。7年間いたし…けど、こうしてお金を少し蓄えることができた。僕は小切手のコピーと会計報告を保管した…借金を返済して、それからしっかりとお金を管理するようになった。」続く

--------------------------------
[翻訳]
Poisson
[訳注参考サイト]
アダム・ホルツマン
amazon.co.jp
CDJournal

訳文の無断転写は禁止させて頂きます。

当ウェブサイトを閲覧するための推奨ブラウザは、Internet Explorer9以上、Android4以上、iOS6以上です。Google Chrome、Mozilla Firefoxは、常時最新版をご利用ください。

© 2016 petrucciani1228.com. All rights reserved